ワインドアップ
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EYEねじまき世代の目

谷中の蕎麦屋

大学を卒業すると同時に自宅を出て谷中に住んだ。初めての下町生活は、人情豊かでよそ者にも優しい居心地良い暮らしが待っていた。

 

学生時代は渋谷の喧騒の中で、友人と喫茶店でおしゃべりしながら昼食を食べることが習慣だった。社会人デビューと同時に谷中に越して間もなく、自宅から最寄りの蕎麦屋で昼食をとる。身についた学生時代からの習慣からか、喫茶店のごとく「サラダはありませんか?」とつい聞くと、

 

「えっ?」と驚く女将さん。「うち、何屋だと思ってのよ!」と怒られてしまった。

 

その時、お客は私一人。にも関わらず調理場からは「トントン」と何かを作っている音がする。やがて、女将が「はいどうぞ」とサラダを持ってきた。今度はこちらが「えっ?」ときょとんとしていると、「あんまりがっかりした顔してるから作ってあげたのよ!」と、先ほどとは打って変わって満面の笑顔だ。ちょと照れくさい気もしながら美味しく頂く。もちろんお蕎麦もうまかった。

 

「ごちそうさま!お勘定」

「ありがとう、600円ね」

「あ、せっかく作ったサラダのお代、忘れてるよ!」と、勝ち誇ったように告げると

「いやねぇ、あれ自宅の余り野菜で作ってあげたのよ。どっちみちメニューにないからお代はいらない。その代わりまた来てね」

 

近所の人たちに触れるたびに「谷中の人情」に出会う生活だった。

 

「来週来たら、天ぷら蕎麦かな」と考えつつ、始めたばかりの谷中暮らしが、長くなることを確信して店をあとにした。

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